本郷の大曽根に祀られる龍神さまの御神木である桂の大木は、明治の津波、大正の大火に遭っても生命力たくましくその姿を今に残している。 そして、大火の対岸にあった大石が残した鎮火祈願歌は、唐丹村の人々の心情と行動を今に残している。 唐丹の「いにし ...
柴琢治の葬儀の際に撮影された写真です。(唐丹公民館所蔵) 柴琢治:柴琢治は1896年(明治29)6月15日の明治三陸大津波の際、大きな被害を受けた唐丹村の人の為に、自宅を開放してけが人を収容し、救援の医師たちが駆けつけるまで不眠不休で手当を続け、村の救済復旧のために奔走しました。そして、1898年(明治31)4月、唐丹村議会の満場一致をもって村長に任命された琢治は、早速村の復興に取り掛かり、小学校・村役場の再建、宅地造成と住宅建設の助成、道路改修工事などを計画。村有林の立木売却を提案し、村の財政再建にあたった。しかし、村の復興はなかなか進まないため、村長の全責任で隣接する国有林のヒバの木、15000本を許可なく伐採し、復興の助けにしました。後に琢治に司直の手が迫ります。しかし、盗伐の発端が被災地復興のための窮余の行為であったこと、また、売却に際して私利私欲が存在しないこと、何より村民の琢治に対する思いから、裁判所側の心証も同情的となり、ついに証拠不十分として釈放されました。
江戸時代に仙台藩が記した地誌「封内風土記」によると、小白浜の「白」は「城」に由来すると伝えている。 豊富な海産・林産に恵まれ、気仙北部の交通・交易の宿駅として発達した小白浜は、明治の津波、大正の大火、昭和の津波を経験しながらも、千歳丸の遠洋 ...
常龍山天照御祖神社に祀られている権現さまは、一度は明治29年の津波で流されたが、今でも津波前のように三頭揃っている。 常龍山開山の歴史は古く、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂による蝦夷平定が背景にあると葛西昌丕が遺した碑は伝える。 唐丹の「 ...