小白浜と片岸を往来する「つるぎ」は、昔からおっかなくて寂しいところといわれる。 この険しき道は人外の者の通り道なのか? 唐丹の「いにしえ」に想いをはせて。 021.小白浜地区・つるぎ坊主.pdf
青嶋峠の追分碑だったジンジョサマ(地蔵様)。 おがまりで小白浜の高等小学校に通う大石の子供たちを見守っていた。 唐丹の「いにしえ」に想いをはせて。 020.大石地区・青嶋峠のジンジョサマ.pdf
本郷の福壽庵にある鐘は、江戸中期に大飢饉を祓うためにこの地の念仏講の人々があげた梵鐘であった。 盛岩寺から福壽庵に移された後も、長い月日の内に、津波、大火の歴史を刻み、先の大戦では半鐘としても使われたという。 唐丹の「いにしえ」に想いをはせ ...
本郷の大曽根に祀られる龍神さまの御神木である桂の大木は、明治の津波、大正の大火に遭っても生命力たくましくその姿を今に残している。 そして、大火の対岸にあった大石が残した鎮火祈願歌は、唐丹村の人々の心情と行動を今に残している。 唐丹の「いにし ...
昔、小白浜にあった「松賀堂菓子舗」の広告です。(唐丹公民館所蔵)
全国各地に残る弘法伝説。 今から1200年前、弘法大師こと空海は唐丹村の本郷に立ち寄り、一宿一飯の恩返しに樫の木を植えていたという。 唐丹の「いにしえ」に想いをはせて。 017.本郷地区・お礼にさした樫の枝が大木に.pdf
本郷シニアの会の皆様が橋野高炉跡に行ってきました。今まで行った事はあるものの解説等を聞いた事がなかった人がほとんどでした。今回はガイドさんがついて、解説しながら回ってくれました。
柴琢治の葬儀の際に撮影された写真です。(唐丹公民館所蔵) 柴琢治:柴琢治は1896年(明治29)6月15日の明治三陸大津波の際、大きな被害を受けた唐丹村の人の為に、自宅を開放してけが人を収容し、救援の医師たちが駆けつけるまで不眠不休で手当を続け、村の救済復旧のために奔走しました。そして、1898年(明治31)4月、唐丹村議会の満場一致をもって村長に任命された琢治は、早速村の復興に取り掛かり、小学校・村役場の再建、宅地造成と住宅建設の助成、道路改修工事などを計画。村有林の立木売却を提案し、村の財政再建にあたった。しかし、村の復興はなかなか進まないため、村長の全責任で隣接する国有林のヒバの木、15000本を許可なく伐採し、復興の助けにしました。後に琢治に司直の手が迫ります。しかし、盗伐の発端が被災地復興のための窮余の行為であったこと、また、売却に際して私利私欲が存在しないこと、何より村民の琢治に対する思いから、裁判所側の心証も同情的となり、ついに証拠不十分として釈放されました。
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